【二〇一五年 杏】
近所にある小さな公園。
遊具はブランコと滑り台、それに鉄棒くらいしかなく、端のほうには小さな砂場がある。公園の中央にそびえる大きな木からは、少し気の早いセミの鳴き声が響いていた。
日が暮れても、まだ熱のこもった空気が肌にまとわりつく。
遊具の影が長く伸び、夏の訪れを告げている。どこにでもあるような公園。
だけど、私にとっては特別な場所だった。
母との数少ない思い出が残る場所――。
幼い頃、母と弟の新と三人で、よくここで遊んだ。
ブランコを押してくれた母の優しい手の温もりも、穏やかに見守る眼差しも、今でも覚えている。そんな思い出に浸っていると、ふいに修司の声が聞こえた。
「どうしたの? ぼーっとして」
「え? ううん、何でもない……ただ、ちょっとお母さんのことを思い出してた」
「お母さん?」
私はブランコの近くの鉄柵に腰を下ろした。
目を細め、母の面影を探すように空を見上げる。修司も隣に座り、静かに耳を傾けてくれた。
「お母さんね、私が小さい頃に亡くなったの。体が弱かったみたい。
思い出もそんなにないし、はっきりとは覚えていないんだけど……たまに、すごく寂しくなることがある」「……うん」
修司は私を見つめ、深く頷いた。
「でも、お父さんと新がいるから、私は幸せ。
二人のこと、大好きだし、守ってあげたいって思う」地面に視線を落としながら、自然と笑みがこぼれる。
それは嘘偽りのない、本心だった。「杏の家族は、きっと愛に溢れてるんだろうな。
お母さんも、お父さんも、新くんも、みんな優しい人なんだろうなって想像できるよ。 ね、いつか会わせてよ」彼の無邪気な笑顔とその気持ちが嬉しくて、私は微笑んだ。
「ふふっ、そうだね。また今度ね」
「うん!」
二人で笑い合う。
ああ……なんだかいいな。こういうの。
大好きな人に、大好きな家族のことを知ってもらえるのは、嬉しい。「あ、それで、修司は何を悩んでるの?」
ふと、本題を思い出した。
彼の話を聞くために、公園に来たんだった。「う、ん……」
先ほどまで笑っていた修司の表情が、一瞬で沈む。
俯き、黙り込んでしまう。私はそんな彼を見つめながら、ただ静かに待った。
二人の間を生ぬるい風が通り過ぎていく。
しばらくすると、修司はぽつりとつぶやいた。
「俺の父さんは……刑事なんだ。しかも、超エリート」修司は苦笑しながら、くくっと喉を鳴らした。
しかし、その直後、彼の瞳に悲しみがよぎったような気がした。「警視総監……か。すごいよね。
あそこまで上り詰めるために、どれだけの犠牲を払ったのかな」暮れなずむ空を仰ぎながら、修司は静かに息を吐いた。
その横顔があまりにも切なくて。
私はただ、黙って彼を見つめることしかできなかった。「俺の考えと、父と兄の考えは違っててさ。
……あ、そういえば俺、兄さんいるんだ。二つ年上の。 その兄も超優秀でさ。周りは、きっと父みたいになるって言うし、俺もそう思うよ」修司は笑っていた。
けれど、その笑顔はどこか寂しげだった。「最近、意見が衝突することが多くて……ちょっと滅入ってた。
でも、杏といると、それも忘れられるんだ。心があたたかくなる。 ありがと、杏」そう言って微笑んだ修司の表情には、少しだけいつもの明るさが戻っていた。
私は嬉しくて、口元が自然とほころぶ。「そっか……。私、家族と衝突したことがなくて。
そりゃ、たまに喧嘩はするけどさ。 ――私には、修司の本当の辛さはわからないかもしれない。 でも、こうやって悩みを話してくれて嬉しい。一緒に考えたり、気持ちを分かち合うことはできるから。 それに、話してくれるってことは、私のこと信用してくれてるってことだよね?」私の言葉に、修司は少し目を見開いた。
「うん……。家族のこと、こんなふうに誰かに話したのは、杏が初めてだよ」
急に真面目な顔をした修司が、真剣な眼差しを向けてくる。
視線が絡まり、鼓動が激しく動き出す。
「杏……君と出会って、まだ二か月しか経ってないけど」
修司は私の目の前に立ち、真正面からじっと見つめてくる。
その頬は、ほんのり赤い。
「俺は、杏が好きだ」
一瞬、時が止まった……気がした。
心臓の音だけが、やけに大きく響く。これは夢だろうか。
――だって、私もずっと好きだった。
出会ったあの時から、きっと。
こんなに早く修司から気持ちを伝えられるなんて、思ってもみなかった。
嬉しい。
嬉しすぎて、どうしたらいいかわからない。思わず顔を覆い、俯いてしまう。
「ど、どうした? え? 嫌だった?」
慌てふためく修司の声。
私は首を横に振る。 その瞬間、修司の動きが止まった。ゆっくりと顔を上げると、修司が驚いた顔でこちらを見つめていた。
「杏……泣いてるの?」
「え?」
気づかなかった。
私、泣いてたんだ。そっと頬に触れると、指先が濡れた。
知らなかった――
嬉しい時でも、涙は出るんだ。
私がくすくすと笑うと、修司は首を傾げる。
「どうした? 杏、大丈夫か?」
きっと、彼は混乱している。
告白したら、突然泣き出し。そして笑い出す私。わけがわからないという表情で、心配そうに私を覗き込んでくる。
修司の瞳をまっすぐに見つめ、囁いた。
「……私も、好き」
「え!?」
修司はすごく驚いた様子で、一歩後ずさった。
その反応がおかしくて、私はつい笑ってしまった。「ふふっ、どうしてそんなに驚くの?」
「だ、だ、だって、そりゃ驚くよ! いきなり、すぎる」
顔を真っ赤にし、恥ずかしそうに目を逸らす修司。
その姿が可愛くて、また笑いがこぼれる。「もう、そんなに笑うなよ……可愛いけど」
「え!?」
私の顔が一気に熱くなる。
きっと、今の私は真っ赤だ。「……あのさ、もう一回言って?」
修司が照れくさそうに、私を見つめる。
「え、じゃ、じゃあ修司が先に言ってよ」
ちょっと意地悪してみた。
……というか、私だって、修司の口からもう一度聞きたい。修司は少し考えた後、ふっと微笑むと、すぐそばまで近づいてきた。
熱を帯びた視線が、まっすぐに私を捕らえる。
「杏……好きだよ」
「私も、修司が好き」
そして――
私たちは、初めてのキスをした。
どうして、あなたを好きになってしまったんだろう。
何度も何度も、そう思った。だけど、苦い初恋の記憶は――私の中から、決して消えてくれなかった。
あなたを忘れたかった。
ずっと、ずっと――。
【二〇一五年 杏】 彼は呆れたように肩を竦め、笑った。「君は私をなめているのか? 私は警視総監だよ。 雅也のしたことなど、大抵のことはもみ消せる。 ……だが、人殺しは――さすがに厄介だった。 そこでだ、君の父親の出番というわけだ」 修司の父は、深く、ゆっくりと息を吐き出したあと、言葉を続けた。「ま、あそこへ居合わせたのは不幸だったよね。ま、それも運命か。 不運としか言いようがない……」 残念そうにうつむき、憐れむように首を振る。 不運……だと? こいつは何を言っているんだ? 人の人生をめちゃくちゃにしておいて。 そんな言葉で済ませるのか! それに、そんな理不尽なことが……本当にまかり通るっていうの!?「こ、こんなこと、許されない。 許されるわけがない! 私がやってやる、どんなことをしてでも、雅也の罪を――」「そんなことをしてみろ。 ……おまえの父親も、弟も、ただでは済まないぞ」「なっ……! そんなこと」「できるわけがないと? なら、なぜ君の父親は口をつぐみ、雅也に罪をきせられたまま黙っている? 馬鹿なのか?」 くっくっと笑うその姿を睨みつけながら、私は歯をきつく食いしばる。 悔しいっ、悔しい! こんな奴に父さんを馬鹿にされて……っ。「うるさいっ! 父さんを馬鹿にするな!! 絶対に、父さんと弟に手出しはさせない!」 その瞬間、カチャリ、と乾いた音がした。 私はわずかに息を詰めたまま、ゆっくりと視線を下げる。 ――そこにあったのは、拳銃だった。 重く冷たい銃口が、まっすぐ私に向けられている。「……っ! この、卑怯者!」 私が睨みつけると、彼は嬉しそうに口角を吊り上げた。「ここで君を殺したとしても、私は何の咎も受けない。 この銃は音が鳴らない仕様でね。ここで発砲したとしても誰
【二〇一五年 杏】 後部座席で待つ私の隣へ、修司の父親はゆっくりとした動作で乗り込んでくる。 扉が閉まると同時に、私は食ってかかった。「さっきの話はどういうことですか? いろいろバレて困るのはあなたの方じゃないですか!」 矢継ぎ早に言葉をぶつける私に対し、 彼は眉ひとつ動かさず、「ふん」と鼻で笑い、吐き捨てるように言った。「何も知らない奴は幸せでいいな。 おまえの父がどんな思いで罪を受け入れたのかも知らないで」 その目は、人を見下すような冷たい色をしていた。 いったい何なのだ、この男の余裕は――。 息子の罪をなすりつけたことがバレたというのに、慌てる気配すらない。 私の思考を読み取ったかのように、彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。「教えてやろうか……おまえたちが、今どんな状況に置かれているのかを」 低く静かな声が、車内の空気を重たくする。 私は無意識に肩を強張らせながら、その続きを待った。「おまえの父は、自ら罪をかぶった。私の息子、雅也のな」 くっくっと、楽しげに喉を鳴らしながら笑うその顔を、きつく睨みつける。 こみ上げる怒りを抑えきれず、私は叫ぶように言った。「だから、それを私が世間に公表してやるって言ってるんです! そしたら、あなたたちは終わりよ!」 だが次の瞬間、修司の父親の目つきが鋭くなる。 さっきまでの余裕はそのままに、目だけがまるで刃物のように光った。「公表すれば……おまえたちも、父親も、終わるぞ。……いいのか?」「な……どういうこと?」 私は息を詰め、震える声で問い返した。 彼は深く大きなため息をつくと、大げさに天井を仰いだ。「これだから、バカは困る。 よーく考えてみなさい。君の父親が、あんなにも頑なに口を割らない理由を」 返す言葉が出てこない。私はただ、無言で睨む。「親にとって、一番大切なものは?」
【二〇一五年 杏】 私はあれから、必死になって雅也のことを訴え続けた。 警察にだって何度も足を運んだ。週刊誌を扱う出版社もいくつか回った。 けれど、どこへ行っても結果は同じだった。皆、まるで見えない壁でもあるかのように、口を閉ざして何も答えようとしない。 誰もが何かを隠している――そんな不気味で異様な空気がそこにはあった。 警察内部や出版社にすら、修司の父親の影響が及んでいるのかもしれない。 あの男が裏から手を回し、誰も何も言わないようにしている。 そんな卑怯で卑劣なことが、まかり通ってしまうなんて。 呆然とすると同時に、抑えきれない怒りが全身を駆け巡っていった。 許せない。 絶対に許せない! 次の父の面会日。 私は意を決して、すべてを父に話した。 雅也のこと、修司の父親のこと。 そして、父がなぜ沈黙を貫いているのかを必死に問いかける。「お父さん……! なんで何も言わないの? あんな奴らのために、なんで!」 父はしばらく驚いたように目を見開いて私を見つめていた。 しかし、その驚きもすぐに消え、何事もなかったかのように目を伏せる。 いつものように無表情に戻り、口を閉ざした。 どうして? どうして黙ったままなの? 私は叫び続けた。 父さんは、知っているはずなんだ。 雅也が真犯人だってことを。 でも、なぜ何も言わない? どうして罪をかぶろうとするの? 私にはわからなかった。 だけど、確信はあった。 あいつらに、何か重大なことで脅されているのだ。 だから、父は口をつぐみ続けている。 でも、それが何なのかまではわからなかった。何度問い詰めても、父は小さく首を振るだけだった。「大丈夫だ」と言いたげな、どこかあきらめにも似た優しい目を向ける父。 私は、何もしてあげられない自分に
【二〇一五年 杏】 「……杏?」 修司が顔を覗かせる。 目が合った瞬間、彼はぱっと笑顔を浮かべた。 「よかった、いたんだ。ちょっと遅いから迷子になったのかと思ってさ、心配したよ」 いつもの優しい笑顔だった。 何も知らない無邪気な顔。 その無防備な笑みに、胸が締め付けられた。 やめて。 そんなまっすぐな表情で、そんな瞳で――。 視線を逸らした。 修司の目を、まっすぐに見ることができなかった。 喉がひどく渇いている。 閉じてしまった喉を懸命に開きながら、かろうじて声を絞り出した。 「……ごめん。ちょっと、気分が悪くなっちゃって。今日はもう、帰るね」 声は震えていた。 笑ってみたけれど、うまく笑えなかった。 「ご家族に……よろしく伝えて」 それだけ言うと、私は駆けだした。 もう限界だった。 「杏!?」 背後から呼び止める声が聞こえたが、それを振り切るように走った。 修司の家の門を抜けて、無我夢中で走り続ける。 涙が溢れてきた。 顔に当たる冷たい風が、その涙を拭い去っていく。 涙はとめどなく溢れ、もう止まらなかった。 息をするのも苦しくて、喘ぐように息が吐き出される。 私は道の途中で立ち止まり、その場に膝をついた。 しゃがみこんだ瞬間、嗚咽が喉から漏れ出す。 泣いているのか、叫んでいるのか、わからない。 声にならない声が、私の奥からあふれていく。 手で顔を覆い、必死に押し殺そうとするけれど、無駄だった。 ――ふと、どこからか、クリスマスソングが聞こえてきた。 遠くの店から流れているのだろう。 にぎやかで、楽しげで、あたたかなメロディー。 その音を耳にした瞬間、私はふっと笑ってしま
【二〇一五年 杏】 二人はどこへ消えたのだろう。 広すぎる屋敷の中を探すのは、想像以上に骨が折れそうだ。 けれど、先ほど修司の父と雅也が部屋を出てから、まだそれほど時間は経っていない。遠くまで行っているはずはないと、自分に言い聞かせた。 静かに足を止め、目を閉じる。少しの風の音にも耳を澄ませた。 ――聞こえる。 かすかに、人の話し声がした。 風のざわめきに紛れるような、小さな小さな声。 慎重にその方向を探る。 応接室から三つ隣の部屋。 その扉は、ほんのわずかに開いていた。 隙間からこぼれるぼそぼそとした声に、私は吸い寄せられる。 胸の奥で鼓動が高鳴る。 そっと足音を殺しながら、扉へと近づいていく。 手のひらは汗ばみ、喉が乾く。 深呼吸を一つして、わずかな隙間にそっと目を寄せた。 そこには、修司の父と雅也の姿があった。 重く張り詰めた空気の中で、二人は向き合いながら言葉を交わしている。「おい、親父……大丈夫なのか? あの子って……」 雅也の声は低く、苛立ちが滲んでいる。 顔には焦りが色濃く浮かんでいた。「わかっている。……心配はいらん。 “あのこと”は、まだ二人とも気づいていない」 修司の父は、雅也とは対照的に、落ち着き払った様子だった。 椅子に深く腰を下ろし、まるで全てを掌握している者のような余裕を漂わせている。 ――あのこと。その言葉に、私の心は大きく揺れた。 まさか、事件のこと……?「でもさ、杏って子がもし気づいたら……」「その時は、私がなんとかする。 ……おまえは余計なことを考えず、いつも通りにしていればいい」 父親は微かに笑みを浮かべながら、雅也に言い聞かせるように告げた。 雅也はほっとしたように肩を下ろし、けれど、なおも不安げな視線を父に向ける。「だけ
【二〇一五年 杏】「佐原……?」 続けて、低い声が聞こえた。 振り向くと、後ろから雅也がゆっくりと近づいてくる。 彼もまた、私をじっと見つめていた。 その目は、以前会ったときよりも鋭さを増し、あからさまに警戒心を帯びている。 私の名前を反芻するように口にしながら、何か考えているようだった。 息が詰まる。 気づいたのだろうか……私が誰なのかを。 まさか、もう……? 佐原、という名字。 それだけで、父のことを思い出した? だとしたら、雅也はやっぱり――。 でも、ここで動揺するわけにはいかない。 まだ、私の正体がバレているという確証はないのだ。 平静を装うしかない。 心の内をぐっと抑え、無理やり笑顔を作った。「お兄さんにはこの前、お会いしましたよね」 なるべく明るく、柔らかく声を出す。「改めまして、佐原杏と申します。修司さんとお付き合いさせていただいています」 その瞬間、二人の表情がピクリと動いた。 激しい動揺が感じられ、まるで何かを隠そうとするように目が泳いだ。 それはほんの一瞬だったけれど、私にははっきりと見えた。 やっぱり――。 この人たちは、何かを知っていて、それを隠している。 そう確信した。「どうしたの? みんな座ろうよ」 修司の声が、その異様な空気をあっさりと拭い去るように響く。 無邪気な笑顔で私の手を引き、ソファーに腰を下ろすよう促してくれた。 私はその手に導かれるまま座り、そっと息をつく。 修司の何気ない優しさが、今は胸に痛い。 何も知らなかったあの頃には、戻れない。 もう、素直に修司と向き合うことが、できないかもしれない。 何も知らない方が……幸せだったのかも。 でも、それでも……「父さんも、兄さんも!」